映画「新聞記者」

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監督は弱冠32歳,「新聞を読まない」世代だそうです.監督の言葉やインタビュー記事から少し引用.
日刊ゲンダイから
監督は32歳。新聞をまったく読まない世代で、政治にも関心がなかった。それで、「民主主義国家で生きている以上、政治とは無縁ではいられない。一人一人の生身の生活と政治は切り離せない。政治から遠ざかれば、民主主義からも遠ざかる」というような話をしたんです。「上から目線ではなく、若者の視点から映画を撮ったら面白いとは思わないか。やってみないか」と。
すると、監督は俄然ヤル気を出して、東京新聞の購読を始めて、モーレツに政治の勉強を始めた。国民が何も知らなければ、権力によって意のままに分断されてしまう。そこに「政治に無関心」の怖さがある。そうしたことが政治による同調圧力に屈してしまう下地になっていることを監督は悟ったんです。うれしかったですね。
週刊金曜日6/28日号の藤井道人監督(32歳)のインタビュー記事から
撮影前、記者や外務省の官僚などさまざまな立場の人に会った。そこで感じたのは「自分があまりにも何も知らなかったことへの恐怖」だという。「自分たちが知ろうとしなかったことや、取捨選択できる時代なのに、僕たちが(その意味を)問わなかった情報がこれほどあったということにぞっとしました。自分がそれまでななめ読みしかしてこなかったニュースや情報の信憑性を考えるようになったんです」
日本の権力のコアとは,警察の情報力を動員して権力と金力でネットとメディアを操り支配するメカニズム,安倍政権によって異常に肥大化した,今日の国家支配の手法の最核心部分.まさにこれを暴いていると思われます.
国家支配に官僚組織や会社組織の上下関係を使うだけでなく,公安を中心とした警察秘密部隊の情報を,権力に都合の悪い人間を排除するのに使う,あるいは,反抗する者への脅しに使うという手法です.過去の典型的な例は,原発問題で政府の言いなりにならなかった福島県の佐藤栄佐久知事への「汚職攻撃」でしょう.(これには共産党の赤旗でさえ「推定無罪」の原則から外れるどころか,謀略に乗った報道だったと思います[2].その総括も今日まで聞いていません.)
今でもこの脅しのメソッドは様々に効いていて,野党の追及がなぜか「寸止め」になっていたり,権力が最も嫌がりそうなところを避けていたりすることの原因になっているのかも知れません.誰しも自分の人生で何十年も遡ってアラ探しをされれば,どんな「ホコリ」も出ないという人はほとんどいないでしょう.それを「週刊誌に暴く」「ネットで拡散させる」と脅されれば,口をつぐむ人がほとんどでしょう.ましてや,ガセネタでさえもある期間は「本当」にできるのです(まさに上の佐藤栄佐久知事のケースのように).
ぜひ多くの人に見て欲しい映画です.難点としては,新聞社のオフィスのシーンでカメラが意味なくぶれること.望遠で撮ったそうですが,意味が分からず,ただ見る人の目を疲れさせるだけです.本では「改定版」がありますが,映画ではそれができない(?)のが残念です.はじめの方でこれさえ我慢できれば,あとは映像的にも秀作です.
[1] 松坂桃李「問題作でも、全裸でも、僕はひるまない」,婦人公論,2019年06月28日
https://fujinkoron.jp/articles/-/533
[2] 主張 福島前知事逮捕 「税金を食い物」の腐敗断て,しんぶん赤旗,2006年10月25日
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-10-25/2006102502_01_0.html
260年前になぜ6万人もの農民が集まれたのか

藩の時代は、権力が見えるところにあり、お城は何とか歩いてでも行ける距離にあった。農民の間でのニュースの共有も、狭い地域社会なので「口コミ」で十分可能だっただろう。しかし我々の住む世界では、権力は遥か遠くにあり、権力者も直接目にすることはできない。テレビの画像の中だけのバーチャルな存在である。ニュースもテレビや新聞というマスメディアによって独占されている。
このように、支配している権力を実感できるかできないか、対する仲間たちの言葉や活動の情報を共有できるかできないかで、大きな違いがある。今日、たとえ大規模な集会で抗議の声を挙げても、メディアに無視されればその存在は消し去られる。
このように考えれば、今日、権力に実際に対抗するとはどういうことかがわかるだろう。抗議の行動はメディアで「必ず」伝えられるようにしなければならない。ひと気の少ない、東京の田舎に等しい臨海広域防災公園で集会するなど(今年の憲法集会)、これとは正反対のやり方だ。(関連記事参照)
ネット上では、安倍政権が続くのは「国民が愚かだからだ」と、国民全体を責める言葉がよく見られる。しかしそのような「評価」をしてみたところで何の役にも立たない。運動圏の人々は、あるいは「目覚めた」人々は、どうすれば効果的な活動になるか知恵を働かせるべきで、むしろそれを見つけ出せていない自分たちを責めるべきだろう。
選挙戦も(共闘や候補一本化、そして票読みなど)選挙に集中するだけでは勝てないだろう。何が問題か、政治で何ができるのかを人々に分からせ、そして自分たちには力があるということを実感させなければならない。そのための重要な戦術形態の一つが、このブログで繰り返し主張する非暴力直接行動、NVDAである。
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* 「久留米市史」第2巻(久留米市発行、1982年)
関連記事: https://pegasus1.blog.so-net.ne.jp/2019-03-25#revolt
九大ファントム墜落51年集会でのスピーチ

やや左翼系敬老会の様相も示していましたが、150名の参加で盛会でした。今日の毎日が写真入りで報道していました。わずか一人とは言え学生の参加があったことが希望です。それもチラシを見て来たとのこと。
「数学による平和教育」のプリントを手に取った女性の参加者が、「こんなの、珍しいですね」と言ってくれました。(写真は榊山惇さんのフェスブックから拝借)同じくこちらの記事には全体の様子が詳細に書かれています。


県警は誰が支配するのか?/県警をめぐる支配・被支配と人事権の関係図
それでは、まず
レジュメ、
そして
スピーチ原稿です。
(冒頭謝辞)
辺野古、高江にはつごう3回行きました。「ゴボウ抜かれ」の経験もあります(例:機動隊員との対話)。人数が多かった時は(ダンプを)止められました。もっとたくさんの人が行くべきだと思います。
さて、北方領土に関して、「戦争で島を取り戻す」という恐るべき発言が国会議員の口から出たことが大きな話題になっています。議員辞職に値するでしょう。しかし、同じことが政府の省庁から、つまり防衛省から出ているのに反応が少ないのは驚くべきことです。例えば、2017年に、佐賀空港オスプレイ配備問題での地権者説明会で防衛省が配布した資料には、占領された島を自衛隊が「奪還」する作戦図絵が公然と記載されています。占領されたのが何十年も前ならダメで、数日、数ヶ月前ならオーケーということでしょうか?しかも自衛隊の場合、「言葉」だけでなく、その練習=演習までやっているのです。
東京の憲法集会は数寄屋橋交差点を占拠して行うべきだった
東京の憲法集会は「防災公園」に9万5千人が集まったという。赤旗のトップページ。(クリックで拡大)

しかし、案の定、メディアはこれを事実上隠蔽した。今日の毎日(久留米市で購読)の3〜4ページの片隅の、参加者数も書かない小さな記事。(クリックで部分拡大)昨日のNHKニュースも同じだ。

しかしこれは全く予想できたことだ。大変な努力をして集会を開いても、少なくとも東京以外の市民に対しては、「なかったこと」にされてしまう。なぜ数寄屋橋交差点を占拠して開かなかったのか? 交通を混乱させ市民に迷惑をかける?? 9条を失い、日本が本格的に戦争に加わる、戦争を引き起こすことの災害に比べたら、どちらを重視すべきか、ことの軽重は自ずから明白だろう。

今朝、NHKのEテレのSNS英語の番組で紹介された英語格言。
"Fortune favors the bold"
「幸運は勇者に訪れる」
「世論の反発」なるものを恐れてばかりいては幸運は訪れない。我々の先祖はもっと勇敢だったことを思い出そう。
「日本人はおとなしい」という集団的自己暗示からの離脱を

しかし、案の定、メディアはこれを事実上隠蔽した。今日の毎日(久留米市で購読)の3〜4ページの片隅の、参加者数も書かない小さな記事。(クリックで部分拡大)昨日のNHKニュースも同じだ。

しかしこれは全く予想できたことだ。大変な努力をして集会を開いても、少なくとも東京以外の市民に対しては、「なかったこと」にされてしまう。なぜ数寄屋橋交差点を占拠して開かなかったのか? 交通を混乱させ市民に迷惑をかける?? 9条を失い、日本が本格的に戦争に加わる、戦争を引き起こすことの災害に比べたら、どちらを重視すべきか、ことの軽重は自ずから明白だろう。

今朝、NHKのEテレのSNS英語の番組で紹介された英語格言。
"Fortune favors the bold"
「幸運は勇者に訪れる」
「世論の反発」なるものを恐れてばかりいては幸運は訪れない。我々の先祖はもっと勇敢だったことを思い出そう。
「日本人はおとなしい」という集団的自己暗示からの離脱を